No.140
ザ・ピーナッツマン ジョージ・ワシントン・カーヴァーの物語 その2
#落花生豆知識 #落花生偉人伝 #ザ・ピーナッツ・マン #ジョージ・ワシントン・カーヴァー
その1の続きです。
ジョージカーヴァーの苦労はまだまだ続いたの?
ジョージ・カーヴァーはミネアポリスに移ったのちも、働きながら勉強をしました。
例えば、一般家庭の労働者、ホテルの料理人、洗濯屋など。
20代後半でミネアポリス高校を卒業したときも、農場労働に従事していました。
これはカーヴァー家で養母が教えてくれた技術が元になっていました。
カーヴァーは高校卒業後、ハイランドカレッジへの進学を望みましたが、
彼が黒人だと知った行政は、全白人校としてカーヴァーの進学を拒否しました。
挫折したカーヴァーは雑用や牧場の番人として過ごしていましたが、
彼にさらなる進学を薦めたミルホランド夫妻の後押しもあり、
アイオワ州のシンプソンカレッジで教職課程を学ぶべく、入学を決めました。
カーヴァーは教職課程でピアノを習っていましたが、彼が植物に対して興味が深く、
植物写生の技術が高いことを知ったエタ・バッド教授は、アイオワ州立農業大学への転校を薦めます。
黒人男性が芸術畑で成功するのは厳しいという理由からでした。
カーヴァーの努力は実を結ばないのか
なんとカーヴァーはここから目覚ましい学問的発展を成し遂げます。
1896年にアメリカではじめてのアフリカ系アメリカ人で理学士号を取得し、
大豆の真菌研究について優秀な成果を上げました。
指導教官から大学院へ残ることを薦められるほどでした。
植物の病気を治療する研究を更に進め、
アイオワ州立大学での初のアフリカ系アメリカ人として教鞭をとりました。
やがてカーヴァーの下に複数の仕事のオファーが届きました。
そのなかには「ブッカー・T・ワシントン」氏からのものもありました。
研究中のカーヴァー
ブッカー・T・ワシントンってだれ?
アフリカ系アメリカ人の教育者であり、立志伝中の人です。
バージニア州の奴隷の子として産まれ、塩の荷造仕事やをしながら学校に通いました。
ハンプトン大学に進み、タスキーギ大学の初代校長となり、
米南部の黒人の高等教育に尽力した人です。
カーヴァーは大学教員として何をしたのか
1986年、ワシントンはカーヴァーをタスキーギ大学に農学部長として招聘しました。
ここでカーヴァーは47年籍を置いて研究をします。
彼はここから南部の農家に向けて、綿花の輪作の方法を教えました。
綿花は土壌を消耗させる植物ですが、毎年同じ場所で綿花を作るのではなく、
合間に落花生など窒素を土壌に放出し、肥えさせる作物を作ることで、
綿花以外の換金作物のメニューを増やし、綿花の収量も上げることができます。
また作物から製品を作る方法を教えて、自給自足できる農業を広めたり、
ニューヨークの金融業者から支援を取り付け、農家に教育を提供できる移動教室を企画しました。
ポイントは綿花と落花生などの窒素固定作物を代わる代わる植える輪作ということです。
どちらも南部ではおなじみの作物ですが、それを輪作することで共に収量を上げることができるというアイデアを広めたのです。
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グーグルでも高評価。
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駐車場も4台。水曜定休。047-472-3311。習志野市大久保4-15-15
地図 https://goo.gl/maps/GcHt1iCqKDgv6JE5A
https://www.shimodaen.com/
参考資料:ものと人間の文化史154 落花生 前田和美 著 法政大学出版局
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その1の続きです。
ジョージカーヴァーの苦労はまだまだ続いたの?
ジョージ・カーヴァーはミネアポリスに移ったのちも、働きながら勉強をしました。
例えば、一般家庭の労働者、ホテルの料理人、洗濯屋など。
20代後半でミネアポリス高校を卒業したときも、農場労働に従事していました。
これはカーヴァー家で養母が教えてくれた技術が元になっていました。
カーヴァーは高校卒業後、ハイランドカレッジへの進学を望みましたが、
彼が黒人だと知った行政は、全白人校としてカーヴァーの進学を拒否しました。
挫折したカーヴァーは雑用や牧場の番人として過ごしていましたが、
彼にさらなる進学を薦めたミルホランド夫妻の後押しもあり、
アイオワ州のシンプソンカレッジで教職課程を学ぶべく、入学を決めました。
カーヴァーは教職課程でピアノを習っていましたが、彼が植物に対して興味が深く、
植物写生の技術が高いことを知ったエタ・バッド教授は、アイオワ州立農業大学への転校を薦めます。
黒人男性が芸術畑で成功するのは厳しいという理由からでした。
カーヴァーの努力は実を結ばないのか
なんとカーヴァーはここから目覚ましい学問的発展を成し遂げます。
1896年にアメリカではじめてのアフリカ系アメリカ人で理学士号を取得し、
大豆の真菌研究について優秀な成果を上げました。
指導教官から大学院へ残ることを薦められるほどでした。
植物の病気を治療する研究を更に進め、
アイオワ州立大学での初のアフリカ系アメリカ人として教鞭をとりました。
やがてカーヴァーの下に複数の仕事のオファーが届きました。
そのなかには「ブッカー・T・ワシントン」氏からのものもありました。
研究中のカーヴァー
ブッカー・T・ワシントンってだれ?
アフリカ系アメリカ人の教育者であり、立志伝中の人です。
バージニア州の奴隷の子として産まれ、塩の荷造仕事やをしながら学校に通いました。
ハンプトン大学に進み、タスキーギ大学の初代校長となり、
米南部の黒人の高等教育に尽力した人です。
カーヴァーは大学教員として何をしたのか
1986年、ワシントンはカーヴァーをタスキーギ大学に農学部長として招聘しました。
ここでカーヴァーは47年籍を置いて研究をします。
彼はここから南部の農家に向けて、綿花の輪作の方法を教えました。
綿花は土壌を消耗させる植物ですが、毎年同じ場所で綿花を作るのではなく、
合間に落花生など窒素を土壌に放出し、肥えさせる作物を作ることで、
綿花以外の換金作物のメニューを増やし、綿花の収量も上げることができます。
また作物から製品を作る方法を教えて、自給自足できる農業を広めたり、
ニューヨークの金融業者から支援を取り付け、農家に教育を提供できる移動教室を企画しました。
ポイントは綿花と落花生などの窒素固定作物を代わる代わる植える輪作ということです。
どちらも南部ではおなじみの作物ですが、それを輪作することで共に収量を上げることができるというアイデアを広めたのです。
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駐車場も4台。水曜定休。047-472-3311。習志野市大久保4-15-15
地図 https://goo.gl/maps/GcHt1iCqKDgv6JE5A
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参考資料:ものと人間の文化史154 落花生 前田和美 著 法政大学出版局