2022年8月14日の投稿[2件]
ザ・ピーナッツマン ジョージ・ワシントン・カーヴァーの物語 その2
#落花生豆知識 #落花生偉人伝 #ザ・ピーナッツ・マン #ジョージ・ワシントン・カーヴァー
その1の続きです。
ジョージカーヴァーの苦労はまだまだ続いたの?
ジョージ・カーヴァーはミネアポリスに移ったのちも、働きながら勉強をしました。
例えば、一般家庭の労働者、ホテルの料理人、洗濯屋など。
20代後半でミネアポリス高校を卒業したときも、農場労働に従事していました。
これはカーヴァー家で養母が教えてくれた技術が元になっていました。
カーヴァーは高校卒業後、ハイランドカレッジへの進学を望みましたが、
彼が黒人だと知った行政は、全白人校としてカーヴァーの進学を拒否しました。
挫折したカーヴァーは雑用や牧場の番人として過ごしていましたが、
彼にさらなる進学を薦めたミルホランド夫妻の後押しもあり、
アイオワ州のシンプソンカレッジで教職課程を学ぶべく、入学を決めました。
カーヴァーは教職課程でピアノを習っていましたが、彼が植物に対して興味が深く、
植物写生の技術が高いことを知ったエタ・バッド教授は、アイオワ州立農業大学への転校を薦めます。
黒人男性が芸術畑で成功するのは厳しいという理由からでした。
カーヴァーの努力は実を結ばないのか
なんとカーヴァーはここから目覚ましい学問的発展を成し遂げます。
1896年にアメリカではじめてのアフリカ系アメリカ人で理学士号を取得し、
大豆の真菌研究について優秀な成果を上げました。
指導教官から大学院へ残ることを薦められるほどでした。
植物の病気を治療する研究を更に進め、
アイオワ州立大学での初のアフリカ系アメリカ人として教鞭をとりました。
やがてカーヴァーの下に複数の仕事のオファーが届きました。
そのなかには「ブッカー・T・ワシントン」氏からのものもありました。
研究中のカーヴァー
ブッカー・T・ワシントンってだれ?
アフリカ系アメリカ人の教育者であり、立志伝中の人です。
バージニア州の奴隷の子として産まれ、塩の荷造仕事やをしながら学校に通いました。
ハンプトン大学に進み、タスキーギ大学の初代校長となり、
米南部の黒人の高等教育に尽力した人です。
カーヴァーは大学教員として何をしたのか
1986年、ワシントンはカーヴァーをタスキーギ大学に農学部長として招聘しました。
ここでカーヴァーは47年籍を置いて研究をします。
彼はここから南部の農家に向けて、綿花の輪作の方法を教えました。
綿花は土壌を消耗させる植物ですが、毎年同じ場所で綿花を作るのではなく、
合間に落花生など窒素を土壌に放出し、肥えさせる作物を作ることで、
綿花以外の換金作物のメニューを増やし、綿花の収量も上げることができます。
また作物から製品を作る方法を教えて、自給自足できる農業を広めたり、
ニューヨークの金融業者から支援を取り付け、農家に教育を提供できる移動教室を企画しました。
ポイントは綿花と落花生などの窒素固定作物を代わる代わる植える輪作ということです。
どちらも南部ではおなじみの作物ですが、それを輪作することで共に収量を上げることができるというアイデアを広めたのです。
--------------------------------
落花生についてもっと知りたい人は
↓をクリックしてください!
#落花生豆知識 #knowledgeofpeanuts
そんな不思議な豆の落花生を食べたいなら、丁寧に作られた下田園の落花生!
美味しい落花生の選び方はこちら!
https://www.shimodaen.com/p/free-page/pa...
グーグルでも高評価。
https://www.google.com/search?q=%E4%B8%8...
駐車場も4台。水曜定休。047-472-3311。習志野市大久保4-15-15
地図 https://goo.gl/maps/GcHt1iCqKDgv6JE5A
https://www.shimodaen.com/
参考資料:ものと人間の文化史154 落花生 前田和美 著 法政大学出版局
#落花生豆知識 #落花生偉人伝 #ザ・ピーナッツ・マン #ジョージ・ワシントン・カーヴァー
その1の続きです。
ジョージカーヴァーの苦労はまだまだ続いたの?
ジョージ・カーヴァーはミネアポリスに移ったのちも、働きながら勉強をしました。
例えば、一般家庭の労働者、ホテルの料理人、洗濯屋など。
20代後半でミネアポリス高校を卒業したときも、農場労働に従事していました。
これはカーヴァー家で養母が教えてくれた技術が元になっていました。
カーヴァーは高校卒業後、ハイランドカレッジへの進学を望みましたが、
彼が黒人だと知った行政は、全白人校としてカーヴァーの進学を拒否しました。
挫折したカーヴァーは雑用や牧場の番人として過ごしていましたが、
彼にさらなる進学を薦めたミルホランド夫妻の後押しもあり、
アイオワ州のシンプソンカレッジで教職課程を学ぶべく、入学を決めました。
カーヴァーは教職課程でピアノを習っていましたが、彼が植物に対して興味が深く、
植物写生の技術が高いことを知ったエタ・バッド教授は、アイオワ州立農業大学への転校を薦めます。
黒人男性が芸術畑で成功するのは厳しいという理由からでした。
カーヴァーの努力は実を結ばないのか
なんとカーヴァーはここから目覚ましい学問的発展を成し遂げます。
1896年にアメリカではじめてのアフリカ系アメリカ人で理学士号を取得し、
大豆の真菌研究について優秀な成果を上げました。
指導教官から大学院へ残ることを薦められるほどでした。
植物の病気を治療する研究を更に進め、
アイオワ州立大学での初のアフリカ系アメリカ人として教鞭をとりました。
やがてカーヴァーの下に複数の仕事のオファーが届きました。
そのなかには「ブッカー・T・ワシントン」氏からのものもありました。
研究中のカーヴァー
ブッカー・T・ワシントンってだれ?
アフリカ系アメリカ人の教育者であり、立志伝中の人です。
バージニア州の奴隷の子として産まれ、塩の荷造仕事やをしながら学校に通いました。
ハンプトン大学に進み、タスキーギ大学の初代校長となり、
米南部の黒人の高等教育に尽力した人です。
カーヴァーは大学教員として何をしたのか
1986年、ワシントンはカーヴァーをタスキーギ大学に農学部長として招聘しました。
ここでカーヴァーは47年籍を置いて研究をします。
彼はここから南部の農家に向けて、綿花の輪作の方法を教えました。
綿花は土壌を消耗させる植物ですが、毎年同じ場所で綿花を作るのではなく、
合間に落花生など窒素を土壌に放出し、肥えさせる作物を作ることで、
綿花以外の換金作物のメニューを増やし、綿花の収量も上げることができます。
また作物から製品を作る方法を教えて、自給自足できる農業を広めたり、
ニューヨークの金融業者から支援を取り付け、農家に教育を提供できる移動教室を企画しました。
ポイントは綿花と落花生などの窒素固定作物を代わる代わる植える輪作ということです。
どちらも南部ではおなじみの作物ですが、それを輪作することで共に収量を上げることができるというアイデアを広めたのです。
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そんな不思議な豆の落花生を食べたいなら、丁寧に作られた下田園の落花生!
美味しい落花生の選び方はこちら!
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グーグルでも高評価。
https://www.google.com/search?q=%E4%B8%8...
駐車場も4台。水曜定休。047-472-3311。習志野市大久保4-15-15
地図 https://goo.gl/maps/GcHt1iCqKDgv6JE5A
https://www.shimodaen.com/
参考資料:ものと人間の文化史154 落花生 前田和美 著 法政大学出版局
ザ・ピーナッツマン ジョージ・ワシントン・カーヴァーの物語 その1
#落花生豆知識 #落花生偉人伝 #ザ・ピーナッツ・マン #ジョージ・ワシントン・カーヴァー
ザ・ピーナッツ・マンと呼ばれるジョージ・カーヴァーってどんな人でしょう
今から150年ほど前のアメリカ南部に農業の伝道師と言われる人がいました。
ジョージ・ワシントン・カーバーです。
彼は不幸な身の上ながらも、農業の研究を重ね、特に黒人の農園に輪作の知識を広めました。
また落花生の栽培や可能性についての研究とその加工品開発でよく知られています。
「ザ・ピーナッツ・マン」と呼ばれるほどです。
アメリカの二宮尊徳のような人ですね。
***
不幸な身の上と言われるカーヴァーは幼少期どんなふうに育ったのでしょう
ジョージ・カーヴァーは1864年ミズーリ州で農園奴隷の子として育ちました。
父親は早く事故死し、まだ生後一週間のジョージと妹と母親は奴隷誘拐団にさらわれました。
所有者だったモーゼス・カーヴァー氏は人を雇い三人を探したものの、見つかったのは瀕死の状態のジョージのみ。
奴隷制度が終わると、モーゼス氏はジョージと兄の二人を自らの家族として育てました。
兄は農園を手伝いましたが、誘拐されている間に呼吸器を痛めた影響からジョージは労働ができません。
そこでモーゼスの妻はジョージに読み書きの他、家事や庭の世話、ハーブ薬の調合などを教えます。
植物に深く興味を持ったジョージは庭や農園の土壌の改良を試し、近隣から「植物学者」と呼ばれるようになりました。
ある日、近所の農園で起きた問題を解決し、その報酬を受け取るため、その家のキッチンに入ると、
彼は壁にかかった美しい花の絵に心を打たれ、植物学者を目指すことに決めました。
子供のころからすでに、片りんを見せていたのですね。
相当優秀な子供だったのでしょう。また育てたカーヴァー夫妻も立派です。
モーゼス・カーヴァー夫妻の農園の家
***
貧しかったカーヴァー少年の苦学を助けてくれた人がいたの?
自分たちの学区の学校へは、黒人の生徒の入学は認められていませんでした。
さらにモーゼス・カーヴァー家の家計が苦しくなってきたのを感じたジョージは、負担を減らすためにも家を離れることにしました。
しばらく放浪しながら身についた手仕事の技術で働いたり、風景画などの絵を描いたりしていましたが、やがて黒人だけの学校に通うことに決めました。
以前住んでいたカーヴァー家から16㎞離れた学校にたどり着いた時にはすでに夜で、校内は施錠されていました。
仕方なく、無断で近所の家の納屋に入り込み眠りましたが、翌朝親切なマライア・ワトキンスという女性が部屋を貸してくれることになりました。
その人に名前を尋ねられて「カーヴァー(さんの所有する)ジョージ」と答えたところ、
女性は「ジョージ・カーヴァーね」と言い、彼はその日からそう名乗ることになりました。
マライアは看護婦と助産師の仕事をし、夫のアンドリューは雑用係でした。
裕福ではなかったようですが、二人はカーヴァーを実の息子のように三年間家に住まわせました。
カーヴァーは家に置いてもらう代わりに、家事を手伝うことにしました。
彼はマライアを生涯尊敬し、彼女の「できる限り学び、それで世界に貢献すること」という言葉を忘れませんでした。
マライアは彼に部屋を貸してくれた上に、聖書も与えたそうです。
カーヴァーは亡くなる間際まで、これを毎日読んでいたといいます。
その後、カンザス州フォートスコットのアカデミーへの入学のために別の里親の家に移ったのですが、
その街で白人による黒人へのリンチ殺人を目撃してしまいます。
ショックを受けたカーヴァーは、同じカンザス州のミネアポリスの学校へ転校しました。
この事件を目撃したことは、彼の心へ大きな影を残したようです。
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そんな不思議な豆の落花生を食べたいなら、丁寧に作られた下田園の落花生!
美味しい落花生の選び方はこちら!
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グーグルでも高評価。
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駐車場も4台。水曜定休。047-472-3311。習志野市大久保4-15-15
地図 https://goo.gl/maps/GcHt1iCqKDgv6JE5A
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参考資料:ものと人間の文化史154 落花生 前田和美 著 法政大学出版局
#落花生豆知識 #落花生偉人伝 #ザ・ピーナッツ・マン #ジョージ・ワシントン・カーヴァー
ザ・ピーナッツ・マンと呼ばれるジョージ・カーヴァーってどんな人でしょう
今から150年ほど前のアメリカ南部に農業の伝道師と言われる人がいました。
ジョージ・ワシントン・カーバーです。
彼は不幸な身の上ながらも、農業の研究を重ね、特に黒人の農園に輪作の知識を広めました。
また落花生の栽培や可能性についての研究とその加工品開発でよく知られています。
「ザ・ピーナッツ・マン」と呼ばれるほどです。
アメリカの二宮尊徳のような人ですね。
***
不幸な身の上と言われるカーヴァーは幼少期どんなふうに育ったのでしょう
ジョージ・カーヴァーは1864年ミズーリ州で農園奴隷の子として育ちました。
父親は早く事故死し、まだ生後一週間のジョージと妹と母親は奴隷誘拐団にさらわれました。
所有者だったモーゼス・カーヴァー氏は人を雇い三人を探したものの、見つかったのは瀕死の状態のジョージのみ。
奴隷制度が終わると、モーゼス氏はジョージと兄の二人を自らの家族として育てました。
兄は農園を手伝いましたが、誘拐されている間に呼吸器を痛めた影響からジョージは労働ができません。
そこでモーゼスの妻はジョージに読み書きの他、家事や庭の世話、ハーブ薬の調合などを教えます。
植物に深く興味を持ったジョージは庭や農園の土壌の改良を試し、近隣から「植物学者」と呼ばれるようになりました。
ある日、近所の農園で起きた問題を解決し、その報酬を受け取るため、その家のキッチンに入ると、
彼は壁にかかった美しい花の絵に心を打たれ、植物学者を目指すことに決めました。
子供のころからすでに、片りんを見せていたのですね。
相当優秀な子供だったのでしょう。また育てたカーヴァー夫妻も立派です。
モーゼス・カーヴァー夫妻の農園の家
***
貧しかったカーヴァー少年の苦学を助けてくれた人がいたの?
自分たちの学区の学校へは、黒人の生徒の入学は認められていませんでした。
さらにモーゼス・カーヴァー家の家計が苦しくなってきたのを感じたジョージは、負担を減らすためにも家を離れることにしました。
しばらく放浪しながら身についた手仕事の技術で働いたり、風景画などの絵を描いたりしていましたが、やがて黒人だけの学校に通うことに決めました。
以前住んでいたカーヴァー家から16㎞離れた学校にたどり着いた時にはすでに夜で、校内は施錠されていました。
仕方なく、無断で近所の家の納屋に入り込み眠りましたが、翌朝親切なマライア・ワトキンスという女性が部屋を貸してくれることになりました。
その人に名前を尋ねられて「カーヴァー(さんの所有する)ジョージ」と答えたところ、
女性は「ジョージ・カーヴァーね」と言い、彼はその日からそう名乗ることになりました。
マライアは看護婦と助産師の仕事をし、夫のアンドリューは雑用係でした。
裕福ではなかったようですが、二人はカーヴァーを実の息子のように三年間家に住まわせました。
カーヴァーは家に置いてもらう代わりに、家事を手伝うことにしました。
彼はマライアを生涯尊敬し、彼女の「できる限り学び、それで世界に貢献すること」という言葉を忘れませんでした。
マライアは彼に部屋を貸してくれた上に、聖書も与えたそうです。
カーヴァーは亡くなる間際まで、これを毎日読んでいたといいます。
その後、カンザス州フォートスコットのアカデミーへの入学のために別の里親の家に移ったのですが、
その街で白人による黒人へのリンチ殺人を目撃してしまいます。
ショックを受けたカーヴァーは、同じカンザス州のミネアポリスの学校へ転校しました。
この事件を目撃したことは、彼の心へ大きな影を残したようです。
--------------------------------
落花生についてもっと知りたい人は
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そんな不思議な豆の落花生を食べたいなら、丁寧に作られた下田園の落花生!
美味しい落花生の選び方はこちら!
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グーグルでも高評価。
https://www.google.com/search?q=%E4%B8%8...
駐車場も4台。水曜定休。047-472-3311。習志野市大久保4-15-15
地図 https://goo.gl/maps/GcHt1iCqKDgv6JE5A
https://www.shimodaen.com/
参考資料:ものと人間の文化史154 落花生 前田和美 著 法政大学出版局